物理学から見る時間旅行

因果律保護コンジェクチャと時間旅行:自然法則はタイムパラドックスを防ぐか

Tags: 因果律保護コンジェクチャ, 時間旅行, タイムパラドックス, ホーキング, 一般相対性理論, CTC

はじめに:時間旅行の物理的可能性とパラドックス

物理学において、時間旅行の可能性は一般相対性理論の特定の解として議論されることがあります。例えば、閉じた時間的曲線(Closed Timelike Curve, CTC)は、時空上の経路が始まりの時点に戻ってくるような概念であり、これが存在すれば理論的には時間旅行が可能になると考えられています。しかし、このような時間旅行は、過去に戻って自分自身の祖父を殺害するといった、いわゆる「祖父パラドックス」に代表される因果律の破綻を引き起こす可能性を孕んでいます。

物理学の枠組みの中で、理論上時間旅行が許容される可能性がありながら、同時に因果律の破綻という根本的な問題を提起する状況に対し、自然法則がどのように振る舞うのかという問いが生じます。この問いに対する一つの有名な仮説が、「因果律保護コンジェクチャ」です。

因果律保護コンジェクチャとは

因果律保護コンジェクチャ(Chronology Protection Conjecture)は、1992年に物理学者スティーブン・ホーキング卿によって提唱された仮説です。このコンジェクチャは、「自然法則は、巨視的な時間旅行を許さない」という強い主張を内包しています。つまり、たとえ一般相対性理論の特定の解がCTCの存在を示唆したとしても、実際にCTCが形成され、因果律が破綻するような巨視的な時間旅行が実現することは、何らかの物理法則によって防がれるだろうという考え方です。

このコンジェクチャの背景には、前述の祖父パラドックスのような因果律の破綻が、物理学の基本的な枠組みそのものを揺るがしかねないという問題意識があります。もし因果律が容易に破綻するならば、原因と結果の連鎖に基づいた物理法則の記述自体が成り立たなくなる可能性があるためです。

なぜ自然法則は時間旅行を防ぐと考えられるのか

因果律保護コンジェクチャは証明された定理ではなく、あくまで「コンジェクチャ(予想)」、あるいは物理学における「原理」のような位置づけですが、それを支持する物理的な議論がいくつか存在します。

一つは、CTCを形成するためには、ワームホールの開口部を維持するなど、極端な物理条件が必要とされる点です。一般相対性理論によれば、CTCの形成にはしばしば負のエネルギー密度を持つ「エキゾチック物質」の存在が必要となります。現在の物理学では、このようなエキゾチック物質を大量に、安定的に存在させることは極めて困難であると考えられており、これがCTC形成の障壁となる可能性が指摘されています。

また、量子力学的な効果も、CTCの形成や安定性を妨げる要因として議論されています。CTCが形成されようとする極限的な時空領域では、場の量子論における真空のゆらぎが非常に大きくなる可能性があります。この量子的なゆらぎが、CTCの形成を不安定化させたり、あるいはCTCの内部でエネルギーが発散したりすることで、CTCが維持できなくなるというシナリオです。これは、カシミール効果のような現象が、極端な時空構造においてどのように振る舞うかといった問題とも関連します。

さらに、CTCの入り口付近で、未来から過去へ向かう光線や粒子が指数関数的に増加し、そのエネルギー密度が無限大に発散する「クロノロジー保護特異点(chronology protection singularity)」が発生するという可能性も議論されました。このような特異点が生じれば、その物理的条件によってCTCは破壊されるか、あるいはその内部への侵入が妨げられると考えられます。

コンジェクチャの現状と限界

因果律保護コンジェクチャは、物理学界で広く議論されていますが、まだ広く受け入れられた証明や反証は存在しません。コンジェクチャを支持する方向での理論的な研究(例:CTC近傍での量子場の振る舞いの解析)は進められている一方で、特定の条件下ではCTCが安定して存在しうるという反論や、コンジェクチャが必ずしもすべての時間旅行のシナリオを除外しない可能性を示唆する研究も存在します。

特に、量子的なスケールでの時間の振る舞いについては、巨視的な時間旅行とは異なる側面があるかもしれません。量子テレポーテーションや量子エンタングルメントといった現象は、古典的な因果律の直観に反するように見えることがありますが、これらが巨視的な時間旅行やタイムパラドックスに直結するわけではないことが、これまでの議論で示されています。因果律保護コンジェクチャは、主に巨視的なスケールでの時間旅行を対象としていると考えられます。

また、コンジェクチャの検証は、量子重力理論という未完成の理論体系の進展に大きく依存しています。時空の極端な曲率や、時間旅行が関わるような領域では、一般相対性理論と量子力学を統一した理論が必要不可欠となるためです。

まとめ:物理学から見た時間旅行の可能性

因果律保護コンジェクチャは、「自然法則はタイムパラドックスを許さない」という物理学者の直観を形にしたものです。これは、理論上可能に見える時間旅行が、現実には何らかの物理的障壁によって阻止されるだろうという考え方に基づいています。

CTCの形成に必要とされる極端な物理条件や、CTC近傍での量子的な不安定性が、このコンジェクチャを支持する主要な根拠として挙げられます。しかし、これはあくまで仮説であり、厳密な証明は得られていません。時間旅行の物理的な可能性や、それを巡る因果律の問題は、現在も活発な研究テーマであり、量子重力理論の発展とともに、その理解が進むことが期待されています。現在の物理学の知見からは、巨視的な時間旅行の実現は極めて困難、あるいは不可能である可能性が高いと考えられています。