情報物理学から見る時間旅行:過去への干渉はエントロピーと情報の壁に阻まれるか
はじめに:時間旅行と物理学の新たな視点
時間旅行は、古くからSFのテーマとして多くの人々を魅了してきました。物理学においても、一般相対性理論における閉じた時間的曲線(CTC)や、特定の時空構造の存在可能性が議論されるなど、その科学的な可能性は真剣に探求されています。多くの場合、議論は時空の幾何学的な性質や、ワームホール、宇宙ひもといった特定の宇宙論的オブジェクトに焦点が当てられます。
しかし、時間旅行の可能性を考える上で、時空構造とは異なる、あるいはそれと密接に関連する別の物理学的側面、すなわち「情報」と「エントロピー」の概念も重要な役割を果たしうる可能性があります。特に過去への時間旅行、すなわち時間の流れに逆行する試みは、熱力学の第二法則や情報物理学の原理と深く関わってくるため、これらの視点からの考察は不可欠と言えます。
この記事では、情報物理学の観点から時間旅行、特に過去への干渉が物理法則によってどのように制約されうるのかを探求します。エントロピー増大の法則やランドauerの原理といった概念が、時間旅行の可能性にどのような示唆を与えるのかを考察します。
時間の矢とエントロピー:熱力学第二法則の示唆
物理学において、時間の方向性を定める最も基本的な法則の一つが熱力学の第二法則です。この法則は、「孤立系のエントロピーは時間とともに増大するか、または一定であり、減少することはない」と述べています。エントロピーは系の乱雑さや無秩序さの度合いを示す量であり、一般的に、私たちの日常経験における時間の流れはエントロピーが増大する方向と一致しています。熱いコーヒーが冷める、部屋が散らかる、といった現象は、エントロピーが増大する不可逆なプロセスです。
このエントロピー増大の法則は、「時間の矢」とも呼ばれ、なぜ過去には戻れないのか、なぜ時間は一方向に流れるように見えるのかを説明する基本的な原理と考えられています。もし過去への時間旅行が可能で、そこで物理的な操作(例えば、散らかった部屋を完全に元通りにする)が可能であるならば、それは全体として孤立系のエントロピーを減少させることにつながり、熱力学第二法則と直接的に矛盾する可能性があります。
ただし、熱力学第二法則は統計的な法則であり、非常に稀な確率でエントロピーが一時的に減少する現象が起こる可能性も理論上は排除されません。しかし、巨視的なスケールでの過去への大規模な干渉は、この法則に強く制約されると考えられます。
ランドauerの原理:計算と情報、エントロピーの関係
さらに踏み込んで、情報そのものが持つ物理的な側面を考慮する必要があります。情報物理学は、情報を物理的なエンティティとして扱い、物理システムと情報処理の関係を探求する分野です。この分野における重要な成果の一つが、IBMの研究者ロルフ・ランドauerによって1961年に提唱された「ランドauerの原理」です。
ランドauerの原理は、「1ビットの情報を物理的に消去する際には、環境中に少なくとも $k_B T \ln(2)$ の熱が放出される」と述べています。ここで、$k_B$ はボルツマン定数、$T$ は環境の絶対温度です。この原理は、計算プロセス、特に不可逆な計算(入力から一意に出力を決定できない計算、例えば情報の消去)が、必ず最小限のエントロピー増加を伴うことを示しています。情報の「消去」とは、物理システムがある情報状態から、その情報が失われた状態(例えばメモリのリセット)へ遷移することを指します。
この原理が時間旅行にどのような示唆を与えるでしょうか。もし過去へ旅行し、そこで何かを「変更」する、すなわち過去の物理的な状態を、実際に起こった歴史とは異なる状態にすることを目指すならば、それは過去のある時点における情報の消去や書き換えを伴う可能性があります。例えば、ある出来事の原因を取り除くといった行為は、その出来事に関する情報(それが存在したという事実)を過去において物理的に「消去」することに等しいかもしれません。
ランドauerの原理に従えば、このような情報の消去はエントロピーの増加を伴います。過去のどの時点でもエントロピーを増加させることは、時間の矢の方向(未来方向)と一致しているため、一見問題ないように思えます。しかし、過去を「変更」するという行為は、局所的なエントロピー変化だけでなく、過去全体の物理状態に対する矛盾を引き起こす可能性があります。特に、過去に不可逆な操作を行ってしまった場合、そこから現在に至るまでのエントロピーの推移が、実際に観測された宇宙の歴史と整合しなくなるかもしれません。
過去への干渉と情報の不可逆性
過去への時間旅行を巡る議論では、「親殺しのパラドックス」に代表される因果律の破綻が主な焦点となります。しかし、情報物理学的な視点からは、因果律の破綻以前に、情報の性質そのものが過去への干渉を物理的に困難、あるいは不可能にしている可能性が示唆されます。
例えば、もし過去のある出来事に関する情報を「なかったこと」にする物理的操作が可能だとすると、それは情報の不可逆性を破ることになります。私たちの宇宙は、マクロなレベルでは不可逆なプロセスに満ちており、情報は失われたり散逸したりすることはあっても、完全に元の状態に戻すことは極めて困難です。過去への時間旅行とそこでの干渉は、この宇宙の根源的な不可逆性、エントロピー増大の法則によって維持される情報の流れの性質に逆行する試みと見なすことができます。
ランドauerの原理が示唆するように、計算(情報処理)は物理的なプロセスであり、不可逆な計算は熱を放出します。過去を「変更」する操作が物理的な計算プロセスであるならば、それはエントロピーを生成します。しかし、過去のある時点での操作が、その後の宇宙の進化(エントロピーが常に増大してきた観測事実)と矛盾しない形で「変更」を成立させることができるのかは、自明ではありません。むしろ、過去への干渉は、情報の因果構造や熱力学的な整合性を破綻させるため、物理法則によって許されない可能性が高いと考えられます。因果律保護コンジェクチャは、このような物理法則による時間旅行(特に過去への干渉)の阻止機構が存在すると考える立場ですが、情報物理学や熱力学からの制約も、その阻止機構の一部を担っているのかもしれません。
未来への時間旅行との対比
これに対し、特殊相対性理論が許容する未来への時間旅行(高速移動や強い重力場による時間の遅れ)は、情報物理学や熱力学的な問題を引き起こしません。未来への旅行は、時間の矢の方向に沿ったプロセスであり、エントロピーが増大する宇宙の自然な流れに逆行するものではありません。観測者は自身の系内で時間の遅れを経験しますが、宇宙全体のエントロピーの流れや情報の不可逆性は維持されます。この違いは、過去への干渉が持つ物理的な困難さを示唆しています。
まとめ:情報・エントロピーと時間旅行の限界
情報物理学、特にエントロピー増大の法則やランドauerの原理は、時間旅行、とりわけ過去への干渉が物理的に困難であることを示唆しています。過去の情報を「変更」することは、情報の不可逆性や熱力学第二法則と矛盾する可能性があり、物理法則によって厳しく制約されると考えられます。時間の矢は、エントロピー増大という情報の不可逆な散逸プロセスによって定義されており、過去への逆行はこの根源的な物理プロセスに逆らう行為に等しいかもしれません。
ワームホールやCTCのような時空構造が理論的に存在しうるとしても、それを利用した過去への時間旅行が、情報物理学や熱力学の原理と整合するかどうかは、依然として大きな未解決問題です。これらの原理は、時間旅行の可能性を議論する上で、時空の幾何学的な側面と同様に、考慮すべき重要な物理学的制約となりうるでしょう。今後の物理学の進展によって、情報、エントロピー、そして時間の関係性がより深く理解されることで、時間旅行の可能性に対するより明確な答えが得られることが期待されます。