時間の矢と時間旅行:エントロピー増大の法則は過去への旅を禁じるか?
はじめに
時間旅行は古くからSF作品の定番テーマとして親しまれてきましたが、物理学においても真剣にその可能性が探求されています。アインシュタインの相対性理論は、時間の遅れ(特殊相対性理論)や、重力による時空の歪み(一般相対性理論)によって、時間の流れが絶対的なものではなく変化しうることを示しました。これに基づき、ワームホールや回転するブラックホールの内部構造といった、時空を操作することで過去や未来への旅行が可能になるかもしれないとする理論的なモデルがいくつか提唱されています。
一方で、時間旅行の議論には、単に時空の構造だけでなく、「時間」そのものの基本的な性質も深く関わってきます。私たちは日常生活で時間が過去から未来へ常に一方向に流れているように感じています。この時間の一方向性を示す物理学的な概念が「時間の矢」です。
本記事では、物理学における「時間の矢」の概念、特に熱力学第二法則として知られるエントロピー増大の法則に焦点を当て、これが過去への時間旅行の可能性に対してどのような制約や示唆を与えるのかを考察します。
物理学における時間の矢とは
「時間の矢」(Arrow of Time)とは、物理法則が時間反転に対して対称であるにもかかわらず、巨視的な系においては時間の一方向性が見られる現象を指します。ニュートンの運動方程式や電磁気学のマクスウェル方程式、さらには量子力学のシュレーディンガー方程式といった基本的な物理法則は、時間の向きを反転させても式の形が変わりません。つまり、これらの法則だけを見れば、現象は時間的にどちらの方向にも進みうるはずです。しかし、私たちの経験する世界の多くの現象は、明らかに一方向的に進行します。例えば、コップが割れて破片が飛び散ることはあっても、破片が集まって元のコップに戻ることはありません。
物理学では、この時間の一方向性を示すいくつかの「時間の矢」が議論されています。代表的なものとしては、以下のようなものが挙げられます。
- 熱力学的時間の矢: 孤立系においてエントロピーが増大する方向。
- 宇宙論的時間の矢: 宇宙が膨張する方向。
- 電磁気学的時間の矢: 電磁波が波源から過去ではなく未来へ向かって伝播する方向。
- 心理的時間の矢: 私たちの意識が過去から未来へ進むと感じる方向。
これらの時間の矢の中で、最も普遍的かつ基本的なものの一つと考えられているのが、熱力学的時間の矢であり、これは熱力学第二法則、すなわちエントロピー増大の法則に基礎を置いています。
熱力学第二法則とエントロピー増大の法則
熱力学第二法則は、自然現象の不可逆性を記述する根本的な法則です。様々な形で定式化されますが、最も一般的なのは「孤立系(外部とエネルギーや物質のやり取りがない系)において、そのエントロピーは時間とともに増大するか、あるいは変化しない」というものです。エントロピーは、系の無秩序さ、乱雑さ、あるいは統計的な状態の数を示す量と解釈できます。
例えば、熱いコーヒーを部屋に置いておくと、コーヒーは冷め、部屋の空気は温まります。これは、エネルギーが集中した秩序だった状態(熱いコーヒーと冷たい空気)から、エネルギーが均等に分散した無秩序な状態へと移行する過程であり、系のエントロピーが増大しています。この逆、すなわち冷たいコーヒーが自発的に熱くなり、周囲の空気が冷える、という現象は観測されません。これはエントロピー増大の法則が禁じているからです。
統計力学の観点から見ると、エントロピーは系の微視的な状態の数に関係します。マクロ的に同じ状態に見えても、ミクロな粒子の配置や運動には多くの可能性があります。エントロピーが高い状態ほど、そのような微視的な状態の数が多く存在します。したがって、系が時間とともにエントロピーの低い状態から高い状態へ移行するのは、単にエントロピーの高い状態の方が圧倒的に多くの可能性を秘めているため、そこに落ち着く確率が極めて高い、という統計的な傾向として理解できます。初期宇宙が非常に低エントロピーな状態から始まったことが、現在の宇宙における様々な不可逆過程、そして時間の矢の根源にあるという考え方もあります。
時間旅行とエントロピー増大の法則
熱力学第二法則が時間の一方向性を示すならば、時間旅行、特に過去への旅行はどのように位置づけられるのでしょうか。
未来への時間旅行: 特殊相対性理論によれば、光速に近い速度で移動する物体にとっては、静止している観測者よりも時間の進み方が遅くなります。これはウラシマ効果として知られ、高速で旅を終えて帰還した宇宙飛行士が、地球に残った人々よりも年を取っていない、という未来への時間旅行と解釈できます。また、一般相対性理論によれば、強い重力場でも時間の進み方は遅くなります。これらの現象は物理法則から厳密に導かれ、時間の遅れが生じる系全体で見れば、エントロピー増大の法則と矛盾しません。未来は過去に比べて系全体の無秩序さが増大している(エントロピーが高い)方向であり、未来への「旅行」はこのエントロピー増大の方向に沿ったものであるため、熱力学的時間の矢とは基本的に調和的です。
過去への時間旅行: 過去への時間旅行は、熱力学的時間の矢と直接的な緊張関係にあります。もし過去へ旅行できたとすれば、それはエントロピーが今より低い状態へ移動することになります。
- 状態の逆転: 過去への旅行は、あたかも時間が逆戻りするかのようです。しかし、これは系全体の物理過程が時間反転されることを意味するのでしょうか。もしそうならば、それはエントロピーが減少することを意味し、熱力学第二法則に正面から反することになります(孤立系を仮定すれば)。
- 相互作用の影響: もし旅行者が過去に到着し、そこで何らかの相互作用(例えば、過去の物体を動かす、情報を伝える)を行ったとします。どのような相互作用も、系全体の微視的な状態を変化させ、通常はエントロピーを増大させます。過去の比較的低エントロピーな状態に、エントロピーを増大させるイベントを持ち込むことは、その時点での系全体の進化の方向を歪めることになります。
- タイムマシンの存在: 過去への時間旅行を可能にする装置、いわゆるタイムマシンが存在すると仮定します。この装置を動作させるプロセス自体や、過去へ移動する際の物理的なメカニズムが、系全体の(あるいは宇宙全体の)エントロピーを減少させることなく実現できるのか、という問いが生じます。タイムマシンとその周囲を含むより広い系を考えたとき、過去へ移動するプロセス全体でエントロピーが保存されるか、あるいは増大する必要があると考えられます。これは、過去への旅行が極めてエントロピーコストの高いプロセスである可能性を示唆します。
異なる時間旅行モデルと時間の矢
物理学で研究されている時間旅行のモデルは、熱力学的時間の矢とどのような関係を持つのでしょうか。
- 閉じ込められた時間的曲線(CTC): 一般相対性理論のいくつかの解(例: カー解の一部、ゲーデル解)には、時間が閉じたループを描く「閉じ込められた時間的曲線(CTC)」が存在しうることが示されています。CTCの上では、因果律が破れる可能性が指摘されており、過去への時間旅行の経路となりうるかもしれません。CTCが存在する領域では、時間が一方的に進むという通常の概念が成り立たないため、エントロピー増大の法則をどのように適用するのかが問題となります。CTCを一周して元の時空点に戻った粒子や情報のエントロピーは、出発時とどうなっているべきか。もし時間が閉じているならば、エントロピーもループ上で変化しない、あるいは特定の振る舞いをする必要があるかもしれません。しかし、マクロなスケールでCTCが安定して存在するかどうかについては、スティーブン・ホーキングの「因果律保護コンジェクチャ」などにより、疑問視されています。これは、CTCが存在しようとすると、量子効果などが因果律の破れを防ぐように働き、CTCの形成を妨げる、あるいは不安定化させるという考え方です。この「因果律保護」のメカニズムの一部として、エントロピーや熱力学的な不安定性が関わっている可能性も推測されます。
- ワームホール: ワームホールを使って過去へ旅行するためには、ワームホールの両端に時間の遅れ(一方の端を高速で移動させるなど)を設ける必要があります。この「時間のずれた」ワームホールを通過することで過去へ行けるというモデルが提唱されています。ワームホールを安定させて開いたままにするためには、負のエネルギー密度を持つエキゾチック物質が必要だと考えられています。エキゾピー増大の法則との関連では、このようなワームホールの形成や維持に必要なエキゾチック物質が、系の全体的なエントロピーや時間の矢とどのように関わるのかが不明瞭です。また、ワームホールを通じた過去への干渉が引き起こす因果律の問題も、エントロピーの概念と絡めて議論されることがあります。
まとめ
物理学における「時間の矢」は、特に熱力学第二法則であるエントロピー増大の法則によって強く支持される、時間の不可逆性を示す概念です。未来への時間旅行は、この時間の矢の方向と矛盾せず、相対性理論によって許容される現象と考えられます。
しかし、過去への時間旅行は、エントロピーがより低い過去の状態へ向かうという点で、熱力学的時間の矢と直感的に衝突します。時間旅行を可能とする物理モデル(CTCやワームホールを用いたものなど)は提案されていますが、それらがエントロピー増大の法則や普遍的な時間の矢とどのように整合性を持つのか、あるいは持たないのかは、物理学における未解決の重要な問題です。因果律保護コンジェクチャのような考え方は、自然法則が何らかの形で過去への時間旅行に伴う矛盾や不安定性を回避する可能性を示唆しており、そのメカニズムにはエントロピーや熱力学的な過程が深く関わっているのかもしれません。
時間の矢と時間旅行の関係性を深く探ることは、時間そのものの物理的な本質を理解し、そして時間旅行が単なるSFの物語に留まるのか、それとも物理法則によって許容される現象なのかを見極める上で、不可欠な視点と言えるでしょう。