物理学から見る『創発する時間』の概念:時間旅行の可能性への新たな視点
物理学における時間の位置づけと「創発する時間」
物理学において、「時間」は最も基本的でありながら、その根源的な性質については未だ多くの謎を残す概念です。ニュートン力学における普遍的なパラメータとしての時間から、相対性理論における時空という動的な構造の一部としての時間、そして量子力学における観測や測定と密接に関わる時間へと、その物理的な描像は変遷してきました。時間旅行の可能性を探る際にも、私たちはまずこの「時間」というものが物理学においてどのように扱われているのかを深く理解する必要があります。
特に、量子力学と一般相対性理論という現代物理学の二つの柱を統一しようとする「量子重力理論」の探求において、「時間」はしばしば問題の核心となります。多くの量子重力理論の候補、例えばループ量子重力理論や超弦理論の一部のアプローチでは、私たちが普段経験する時間や空間が、より基本的な物理的な自由度から「創発する」(emergeする)現象として捉えられることがあります。これは、時間そのものが基本的な実体ではなく、ある深部にある構造から生まれる性質である可能性を示唆します。
もし時間が創発的なものであるならば、時間旅行という概念はどのように再構築されるのでしょうか。基本的なパラメータや座標軸としての時間が存在しない、あるいは異なる形で現れる物理法則の中で、過去や未来への移動はどのように記述されるのでしょうか。本稿では、この「創発する時間」という概念に焦点を当て、それが物理学における時間旅行の議論にどのような新たな視点をもたらすのかを探求します。
「創発する時間」とは何か
なぜ物理学者は時間や空間が創発的である可能性を議論するのでしょうか。その主要な理由の一つは、一般相対性理論と量子力学を単純に組み合わせようとした際に生じる困難、特に「時間の問題」(Problem of Time)と呼ばれる問題にあります。一般相対性理論では、時空の幾何学(重力)は動的な物理量であり、場の量子論のように背景となる固定された時空上で定義することが難しいのです。この状況は、量子重力理論の基本的な方程式において、時間が明確な進化パラメータとして現れないという形で現れることがあります。
このような背景から、多くの量子重力理論の枠組みでは、私たちが「時間」と認識しているものは、より基本的な物理量の間の相関関係や、統計的な性質、あるいは特定の配位から現れ出るものとして考えられています。いくつかの具体的な例を挙げます。
- ループ量子重力理論 (Loop Quantum Gravity): この理論では、時空は「スピンネットワーク」や「スピノーム」と呼ばれる離散的な量子構造から構成されると考えられています。時間や空間の連続的な性質は、これらの離散的な要素が多数集まることで現れる巨視的な性質であると解釈されることがあります。
- AdS/CFT対応 (Anti-de Sitter/Conformal Field Theory Correspondence): この対応は、反ド・ジッター空間(AdS空間)上の重力理論が、その境界上の共形場理論(CFT)と等価であるとするものです。CFTは重力を含まない場の理論であり、通常は明確な時間進化を持ちます。この対応を用いると、AdS空間内部の時空や重力、そして時間という概念が、境界上のCFTの状態やダイナミクスから創発すると解釈できます。
- エンタングルメントと時空: 最近の研究では、量子エンタングルメントが時空の幾何学と深く関連している可能性が示唆されています。特に、AdS/CFT対応の文脈で、バルク(AdS空間内部)の時空領域の「サイズ」や「接続性」が、境界上のCFTにおける量子状態のエンタングルメントの度合いによって決定されるというアイデアが探求されています(例:ER=EPRの関係性など)。この考え方をさらに進めると、時間もまたエンタングルメントのような量子の性質から創発する可能性が見えてきます。
これらのアプローチは、時間という概念が、私たちが直感的に考えるような普遍的で基本的な「流れ」ではなく、より深いレベルの物理法則から生まれる二次的な、あるいは統計的な現象である可能性を示唆しています。
創発的な時間の観点から見た時間旅行
もし時間が創発的な性質を持つならば、物理学における時間旅行の議論にはどのような影響があるでしょうか。
従来の物理学、特に一般相対性理論に基づく時間旅行のシナリオ(例:ワームホール、閉じた時間的曲線 CTC)は、時間という座標軸に沿って移動するという考えに基づいています。しかし、時間が創発的である場合、この「時間という軸」そのものが存在しないか、あるいは私たちが考えるような形では存在しない可能性があります。
- 時間座標軸の非存在: 創発的な時間モデルにおいては、基本的なレベルでは時間を示す明確なパラメータが存在しないかもしれません。代わりに、異なる物理的な自由度の間の相関関係を追跡することが、「時間の流れ」として認識される可能性があります。このような状況で、過去や未来といった特定の時点への「移動」を定義することは困難になるかもしれません。時間旅行は、特定の相関パターンを再現したり、過去に存在した物理状態を再構築したりする、といった全く異なる概念になる可能性があります。
- 因果関係の再評価: 創発的な時間においては、因果関係の概念も再評価が必要になるかもしれません。通常、因果関係は時間軸に沿って原因が結果に先行するという形で定義されます。しかし、時間そのものが創発的である場合、基本的な物理法則は時間的な順序を含まない形で定式化される可能性があります。この場合、因果律は、より深いレベルの非時間的な物理法則から創発する性質として理解される必要があるかもしれません。閉じられた時間的曲線(CTC)のような、因果律に挑戦する構造が、創発的な時間モデルではどのように扱われるのか、あるいはそもそも許容されないのかは、活発な研究テーマです。
- 量子的な性質と時間: エンタングルメントのような量子の性質が時間と深く関わっている場合、時間旅行の議論に量子的な非局所性が関与してくるかもしれません。しかし、量子エンタングルメントは情報やエネルギーの超光速伝達を許さないことが知られています(ノーコミュニケーション定理)。これは、もし時間がエンタングルメントから創発するとしても、その性質が古典的な時間旅行のパラドックスを自然に回避するメカニズムを含んでいる可能性を示唆します。
可能性と限界
「創発する時間」という視点は、時間旅行の議論にいくつかの新たな可能性と、同時に大きな限界を示唆します。
可能性: * 時間というものが柔軟で、基本的な構造から生まれる性質であるならば、私たちがまだ理解していない物理的な手段によって、時間の流れを操作したり、異なる時間的な配位を「生成」したりする可能性が、全く新しい形で現れるかもしれません。 * 量子的な自由度(例えばエンタングルメント)が時間と関係している場合、量子的な現象を利用した時間に関する操作が、将来的には考えられるようになるかもしれません。
限界: * もし時間が創発的な統計的・巨視的な性質であるならば、私たちが経験する「過去」や「未来」といった概念が、基本的な物理レベルでは意味を持たない可能性があります。この場合、特定の過去の時点に「移動する」という概念そのものが成立しなくなり、時間旅行は根本的に不可能であるということになるかもしれません。 * 創発的な時間モデルは、多くがまだ仮説段階であり、実験的な検証は極めて困難です。現在のところ、時間旅行の可能性を示唆する具体的な創発時間モデルは存在しません。むしろ、多くの創発時間モデルは、私たちが経験する時間の一方向性や因果律の強固さを説明しようとしており、時間旅行を許容しない方向性を示唆するものが多いと言えます。
まとめ
物理学における「創発する時間」という概念は、時間というものの根源的な性質に問いを投げかけるものです。時間が、基本的な物理パラメータではなく、より深いレベルの物理的な自由度から現れ出る現象であるという考え方は、量子重力理論の探求において重要な役割を果たしています。
この創発的な時間の観点から時間旅行を考えるとき、従来の時間座標軸に沿った移動という描像は大きく変化する可能性があります。時間旅行は、物理状態の再構成や、特定の相関関係の操作といった、全く異なる概念として理解される必要があるかもしれません。あるいは、時間が創発的な巨視的性質であるならば、時間旅行は根本的に不可能であるという結論に至る可能性も十分にあります。
「創発する時間」の研究はまだ始まったばかりであり、時間旅行の可能性について決定的な結論を出す段階ではありません。しかし、この視点は、時間旅行の議論を、単なる時空の幾何学的操作だけでなく、時間の根源的な物理的性質を深く理解するという、より基礎的なレベルへと引き上げています。今後の量子重力理論や、時間に関する基礎研究の進展が、時間旅行の可能性について新たな光を投げかけることが期待されます。