物理学から見る時間旅行

物理学から見る量子エンタングルメントと時間:超光速通信はなぜ時間旅行につながらないのか

Tags: 量子エンタングルメント, 時間旅行, 超光速通信, 因果律, 物理学

はじめに

時間旅行の可能性は、古くから多くの人々を魅了してきました。物理学においては、アインシュタインの一般相対性理論に基づき、ワームホールや閉じた時間的曲線(CTC)といった時空構造の概念から時間旅行へのアプローチが議論されています。これらは主に、時空自体の歪みや構造によって過去や未来への移動が可能になるかを問うものです。

一方で、現代物理学のもう一つの柱である量子力学も、時間や因果律といった概念に深い問いを投げかけています。特に、量子エンタングルメント(量子もつれ)と呼ばれる現象は、遠く離れた二つの粒子の間に瞬時の相関が存在することを示唆しており、この性質が超光速通信や、ひいては時間旅行につながるのではないかという考えがしばしば提起されることがあります。

本稿では、量子エンタングルメントの持つ驚くべき性質を概観しつつ、それがなぜ超光速通信や時間旅行の直接的な手段とはならないのか、物理学が示す基本的な制約について解説します。

量子エンタングルメントの非局所性

量子エンタングルメントとは、二つ以上の量子が特別な重ね合わせ状態にあり、たとえそれらが空間的に遠く離れていても、一方の粒子に対して測定を行うと、もう一方の粒子の状態が瞬時に決定されるという現象です。例えば、スピンがゼロであるような粒子の崩壊によって生成された二つの粒子AとBがエンタングルされているとします。AとBは互いに反対のスピン(アップとダウン)を持つペアとして生成されますが、それぞれの粒子のスピンがアップなのかダウンなのかは、測定を行うまで確定しません。量子力学によれば、測定前は両方の場合の重ね合わせ状態にあります。ここで、もし粒子Aのスピンを測定して「アップ」であることが確定した場合、粒子Bのスピンは(瞬時に)「ダウン」であることが確定します。逆にAが「ダウン」であればBは「アップ」です。この相関は、AとBがどれほど離れていても観察されます。

この現象は、アインシュタインが「幽霊のような遠隔作用(spooky action at a distance)」と呼び、局所的実在論の観点から量子力学の不完全性を示すものとして批判的に捉えたものです。しかし、その後のベルの不等式の実験的な破れなどにより、量子力学の非局所的な性質が物理的な現実であることが広く受け入れられています。

超光速通信の可能性への期待と物理学の回答

量子エンタングルメントにおける「瞬時の状態決定」という性質だけを見ると、これを利用すれば光速を超えて情報を送れるのではないか、という直感が生まれるかもしれません。例えば、A地点とB地点にエンタングルした粒子をそれぞれ一つずつ持ち、A地点で測定結果が「アップ」ならメッセージ1、「ダウン」ならメッセージ2というように、測定結果を情報のビットに対応させようとする試みです。Aで測定を行えば、その結果に応じてBの粒子の状態が瞬時に確定するため、B地点の観測者はその確定した状態を測定することで、A地点から情報が瞬時に伝わってきたかのように見えるかもしれません。

しかし、物理学はこれが情報の超光速通信には利用できないことを明確に示しています。その根拠となるのが「超光速通信不可能性定理(No-Communication Theorem)」です。この定理によれば、量子エンタングルメントを利用しても、古典的な情報(例えば、あるメッセージを構成するビット列)を光速を超えて伝送することは不可能です。

なぜでしょうか。鍵となるのは、A地点での測定結果が本質的に確率的であるという点です。粒子Aのスピンを測定したときに「アップ」が出るか「ダウン」が出るかは、事前の操作やA地点での意図によって制御することはできません。測定結果は量子力学的な確率に従ってランダムに決定されます。したがって、A地点の観測者は、粒子Aの測定結果を意図的に「アップ」または「ダウン」に操作して、特定の情報をエンコードすることができないのです。

B地点の観測者が測定によって知ることができるのは、あくまでA地点での測定結果と相関した自身の粒子の状態です。個々の測定結果だけを見れば、B地点での測定結果はランダムにしか見えません。A地点での測定がB地点での測定結果の統計的な性質に影響を与える可能性はありますが、具体的な個々の測定結果系列の中にA地点からの情報(例えばモールス信号に対応するパターン)を埋め込むことはできないのです。したがって、B地点の観測者は、A地点からの測定が行われたかどうか、あるいはどのような測定結果が出たかを知るためには、結局のところ光速以下の速度で伝播する古典的な通信手段(例えば電話やインターネット)でA地点からの情報を得る必要があります。

超光速通信と時間旅行の関係

もし超光速通信が可能であったと仮定すると、それは特殊相対性理論における因果律を破る可能性があります。特殊相対性理論によれば、いかなる情報や物体も光速を超えて移動することはできません。これは、異なる慣性系から見たときに、事象の時間順序が逆転する(結果が原因より先に観測される)ことを防ぎ、因果律を保つために不可欠な原理です。

超光速で情報を伝達できるタイムマシンが存在すると考えられます。例えば、A地点からB地点へ光速の2倍で情報を送れる装置があるとします。この装置を、地球の公転運動などを利用して特定の速度で移動する宇宙船に搭載し、信号の送受信を行うことで、信号が送信された時点よりも過去の地球に到着するような経路(時空上の曲線)を構成することが理論的に可能になります。これは、過去に情報を送る、すなわち時間旅行の一種と見なすことができます。

しかし、前述の通り、量子エンタングルメントを利用した超光速通信は不可能です。このことは、物理学の基本的な枠組みが因果律を強固に保護していることを示唆しています。量子エンタングルメントの非局所性は、あくまで相関の性質であり、情報伝達の手段ではないため、因果律を破る心配はありません。

まとめ

量子エンタングルメントは、現代物理学が明らかにした最も驚異的な現象の一つであり、空間的に分離した粒子間の強固な相関を示します。この性質が「幽霊のような遠隔作用」や「瞬時の状態決定」として捉えられることから、超光速通信や時間旅行の可能性が連想されることがあります。

しかし、物理学の厳密な理論は、量子エンタングルメントが情報の超光速伝達には利用できないことを「超光速通信不可能性定理」として示しています。これは、エンタングルメント測定の結果が本質的に確率的であるため、意図的な情報伝達に利用できないことに起因します。超光速通信が不可能であることは、相対性理論が課す因果律の制約と整合しており、物理的な世界の基本的な構造を示しています。

したがって、量子エンタングルメントは確かに非局所的な相関を持ちますが、それは時空構造を操作するような古典的な時間旅行のアプローチ(ワームホールやCTCなど)とは根本的に異なり、時間旅行の直接的な手段を提供するものではありません。物理学における時間旅行の可能性を探る研究は続けられていますが、それは量子エンタングルメントの非局所性とは異なる側面、例えば量子重力理論における時空の振る舞いや、さらに高度な時空構造の理解に関わるものと言えるでしょう。