物理学から見る時間旅行

回転するブラックホールと時間旅行:カー解の特異点構造と閉じた時間的曲線

Tags: ブラックホール, カー解, 一般相対性理論, 閉じられた時間的曲線, 時間旅行

はじめに

物理学における時間旅行の可能性を探求する上で、一般相対性理論が記述する重力場の極限的な状態であるブラックホールは、しばしば重要な考察対象となります。特に、静的なブラックホールだけでなく、回転するブラックホールはその周囲および内部に非常に複雑な時空構造を持っており、これが時間旅行の理論的な可能性と結びつけられることがあります。本稿では、回転するブラックホールを記述する「カー解」に焦点を当て、その特異点構造と、理論的に示唆される「閉じた時間的曲線(Closed Timelike Curve, CTC)」が物理学から見た時間旅行の議論にどのように関わるのかを解説します。

一般相対性理論とブラックホールにおける時間の歪み

アインシュタインの一般相対性理論は、重力が時空の歪みとして現れるという革新的な概念を提示しました。質量やエネルギーが存在すると、その周囲の時空は歪み、その結果として物質や光は曲がった時空に沿って運動します。この時空の歪みは時間の流れにも影響を与え、重力が強い場所ほど時間の進み方は遅くなります。これは「重力による時間の遅れ」として知られており、地球上でも高度が低い場所ほど時間が遅く進むことが精密な実験で確認されています。

ブラックホールは、あまりにも重力が強いために、事象の地平面と呼ばれる境界の内側からは光ですら脱出できない天体です。静的な(電荷を持たず回転もしていない)ブラックホールはシュヴァルツシルト解によって記述され、その事象の地平面の近くでは時間の遅れが極めて顕著になります。もし観測者がブラックホールの外側から事象の地平面に向かう物体を観測した場合、その物体は地平面に近づくにつれて時間の進み方が遅くなり、地平面に到達するまでには無限の時間がかかるかのように見えます。これは、重力による時間の遅れが極限に達することを示唆しています。しかし、このシュヴァルツシルト解は、ブラックホールの特異点(時空の曲率が無限大になる点)においては解が破綻するという問題を抱えています。

回転するブラックホール:カー解の複雑な構造

宇宙に存在するほとんどの天体は回転していると考えられており、ブラックホールも例外ではありません。回転する電荷を持たないブラックホールは、1963年にロイ・カーによって発見された「カー解」によって記述されます。カー解が記述する時空は、シュヴァルツシルト解よりもはるかに複雑な構造を持ちます。

カー解のブラックホールには、事象の地平面の他に「エルゴ球」と呼ばれる領域が存在します。エルゴ球の内側では、時空の引きずり効果(フレーム・ドラッギング)が非常に強く、静止している観測者でさえ回転方向に引きずられ、回転せずに留まることは不可能になります。

さらに興味深いのは、カー解が記述するブラックホールの「内部」構造です。シュヴァルツシルト解の特異点は一点に集中していますが、カー解の特異点はリング状になっています。このリング特異点を通過すると、理論上は異なる宇宙領域や、時間的な構造が異なる領域に接続される可能性が議論されることもあります。

カー解と閉じた時間的曲線(CTC)

カー解の最も特筆すべき側面の一つは、その内部領域に閉じた時間的曲線(CTC)が存在する可能性を理論的に示唆している点です。CTCとは、時空上の経路でありながら、出発点と終了点が同一であるにもかかわらず、経路上のすべての点で時間的に未来へ向かう方向(つまり、光円錐の内側)に進むことができるという性質を持つ曲線です。

もしこのようなCTCが存在するならば、その経路を辿ることで過去に戻ることが理論的には可能になります。すなわち、ある時点・場所から出発してCTC上を一周すると、出発した時点よりも「過去」の同じ場所に戻ってくることができるため、物理学的な時間旅行(過去への旅行)の可能性を示唆することになります。カー解の内部、特にリング特異点の近くの領域では、特定の条件下でCTCが存在しうると理論的に計算されています。

物理学的な課題と限界

カー解が理論的にCTCの存在を示唆する一方で、これが現実的な時間旅行の可能性を意味するわけではありません。ここにはいくつかの重大な物理学的な課題と限界が存在します。

  1. カー解の物理的現実性: カー解は理想化されたモデルであり、実際のブラックホールの内部が正確にカー解によって記述されるかは不明です。特に、特異点の構造や、その極限環境での物理法則がどうなるかは、量子重力理論のようなより根本的な理論が必要とされており、現在の一般相対性理論の枠組みだけでは十分に理解されていません。
  2. 特異点での物理法則の破綻: カー解のリング特異点においては時空の曲率が無限大となり、一般相対性理論の記述が破綻します。CTCが仮に存在するとされる領域は、この特異点に極めて近い場所であり、そこで物理法則がどのように振る舞うかを正確に予測することはできません。
  3. 内部領域の不安定性: カー解の内部領域は、物理的な摂動(例:光の到来など)に対して不安定である可能性が指摘されています。現実的なブラックホール形成過程においては、このような不安定性によってカー解の理想的な内部構造が維持されず、CTCが形成されない可能性が考えられます。
  4. 因果律保護コンジェクチャ: 理論物理学者のスティーブン・ホーキングは、「因果律保護コンジェクチャ」を提唱しました。これは、物理法則が閉じた時間的曲線の出現を決して許容しない、あるいは非常に困難にするメカニズムが働くという推測です。もしこのコンジェクチャが正しければ、カー解の内部に理論的にCTCが存在しうるとしても、それを実際に利用したり、安定に維持したりすることは、何らかの物理法則によって阻害されることになります。

まとめ

回転するブラックホールを記述するカー解は、一般相対性理論の枠組み内で閉じた時間的曲線(CTC)の存在を理論的に示唆する興味深い例を提供します。これは、過去への時間旅行が物理学的に全く不可能ではない可能性を示唆する一方で、その実現には極めて困難な物理学的な課題が山積しています。カー解の内部構造の物理的現実性、特異点での物理法則、内部領域の安定性、そして因果律保護コンジェクチャなどが、理論的な可能性と現実的な実現性の間の大きな隔たりを示しています。

ブラックホールの研究、特にその内部構造や特異点の理解は、一般相対性理論と量子力学を統合する究極的な理論である量子重力理論の構築にも繋がるものです。カー解におけるCTCの存在は、時間と因果律に関する物理学の深い問いを私たちに投げかけており、これらの謎が解き明かされるにつれて、時間旅行の物理学的な可能性についての理解もさらに深まるでしょう。現時点では、回転するブラックホールを使った時間旅行は理論上の興味深いトピックに留まりますが、時空の性質に関する基礎研究の重要な一端を担っています。