物理学から見る時間旅行

ワームホールを安定させる物理学:エキゾチック物質と負のエネルギーの役割

Tags: ワームホール, エキゾチック物質, 負のエネルギー, 一般相対性理論, 時間旅行

はじめに:ワームホールの可能性と課題

一般相対性理論は、時空が物質やエネルギーによってどのように曲がるかを記述する理論です。この理論の厳密解の一つとして、ワームホール(Einstein-Rosen bridge)と呼ばれる時空のトンネルが存在する可能性が示唆されています。ワームホールは、宇宙の離れた二点間や、異なる時間軸上の二点間を結ぶショートカットとして機能しうるため、時間旅行のメカニズムとしてSFのみならず物理学の議論においても古くから注目されてきました。

しかし、一般相対性理論によって許容される単純なワームホールの多くは、瞬時に崩壊するか、事象の地平線に覆われているため通り抜けることができません(非トラバーサブル)。時間旅行を含む、物理的な物体や情報が通過可能な「トラバーサブル・ワームホール」を実現するためには、その「喉(スロート)」を安定的に開いた状態に維持する必要があります。この維持のために必要とされるのが、「エキゾチック物質」と呼ばれる特殊な物質、特に負のエネルギー密度を持つ物質の存在です。

本記事では、ワームホールを安定に保つためにエキゾチック物質、特に負のエネルギーがどのように物理学的に機能するのか、そしてその実現性に関する現在の物理学の知見について解説します。

ワームホールの不安定性:なぜ自然に閉じるのか

一般相対性理論において、物質やエネルギーは時空を曲げます。通常、私たちが経験する物質(正の質量・エネルギー密度を持つ物質)は、時空を引力的に曲げます。これは、アインシュタイン方程式におけるエネルギー・運動量テンソルの成分が、時空の曲率テンソルと関連付けられていることによります。

ワームホールのような時空の構造では、その喉の部分で時空が極端に湾曲しています。通常物質が存在する場合、その引力的な作用により、ワームホールの喉は急速に収縮し、最終的には閉じてしまいます。これは、ブラックホールが形成される際に特異点に向かって物質が収縮していくのと似た傾向です。もし物質がワームホールを通過しようとすれば、その物質自身のエネルギーと運動量によってワームホールの喉はさらに収縮が加速され、通過は不可能となります。

トラバーサブル・ワームホールを維持するためには、この自然な収縮傾向に逆らい、時空を反発させるような、あるいはワームホールの喉を開いたままに保つ特殊な力が必要となります。

ワームホール維持に必要な「時空の反発力」

時空を反発させる、つまり時空の収縮に抗うためには、通常とは異なる物質やエネルギーの分布が必要であることが理論的に示されています。具体的には、ワームホールの喉の領域で、負のエネルギー密度を持つ物質やエネルギーが存在する必要があります。

アインシュタイン方程式の右辺にあるエネルギー・運動量テンソルは、物質やエネルギーの種類とその分布を表現します。このテンソルの特定の成分(特にエネルギー密度や圧力に関連する成分)と時空の曲率の関係を調べることで、ワームホールのような構造を維持するために必要な物質の性質が明らかになります。理論的な解析の結果、ワームホールの喉を開いたままにするには、特定のエネルギー条件(例えば、Null Energy Condition, Weak Energy Conditionなど)を満たさない、非日常的な性質を持つ物質が必要であることが導かれます。このような物質は「エキゾチック物質」と呼ばれます。

最も典型的なエキゾチック物質の定義は、そのエネルギー密度が負であるという性質です。通常の物質のエネルギー密度は常に正です。負のエネルギー密度を持つ物質が存在すると仮定すると、それは時空に対して通常とは逆の、斥力的な効果をもたらす可能性があります。この斥力的な効果が、ワームホールの喉が閉じるのを防ぎ、開いた状態を維持するために利用できると考えられています。

エキゾチック物質と負のエネルギー:その物理的な可能性と課題

負のエネルギー密度という概念は非常に奇妙に聞こえるかもしれませんが、量子力学においてはその可能性が完全に否定されているわけではありません。最もよく知られた例の一つにカシミール効果があります。

カシミール効果では、二枚の平行な金属板を非常に接近させて真空中に置くと、その間にごくわずかながら引力が発生します。これは、量子的な真空のエネルギー(真空ゆらぎ)が、金属板の間と外側で異なり、板の間の特定の波長の電磁場が制限されることに起因します。計算によると、金属板の間の領域では、外側の領域よりもエネルギー密度がわずかに低くなります。この「エネルギーが低い状態」を、基準となる真空エネルギー(通常はゼロとされる)からの相対的な値として捉えると、板の間には負のエネルギー密度が生じていると解釈できます。カシミール効果によって生じる力は実験的にも確認されています。

カシミール効果は負のエネルギー密度の存在を示唆する例ですが、ワームホールの維持に必要な負のエネルギーは、カシミール効果で生じる量よりもはるかに大きく、かつ特定の時空領域に集中して存在する必要があります。現在の物理学の理解では、マクロなスケールでワームホールを安定させるのに十分な量の負のエネルギーを持つ物質を生成・操作する方法は見つかっていません。また、負のエネルギー密度を持つ物質の存在は、エネルギー保存則や因果律といった物理学の基本原理とどのように整合するのかなど、理論的な課題も多く残されています。例えば、負のエネルギーを持つ粒子が存在すると、エネルギーが低い状態へ際限なく崩壊する「真空の不安定性」を引き起こす可能性や、因果律の破綻(時間旅行)を許容してしまう可能性が指摘されています。

まとめ:時間旅行への物理的障壁

ワームホールを用いた時間旅行の可能性は、一般相対性理論が許容する時空構造に根ざした魅力的なアイデアです。しかし、その物理的な実現性は、ワームホールの不安定性を克服し、喉を開いたまま維持するためのエキゾチック物質、特に負のエネルギー密度を持つ物質の存在に依存しています。

カシミール効果のような量子的な現象は、負のエネルギー密度が局所的に、あるいは瞬間的に存在しうる可能性を示唆していますが、マクロなスケールでワームホールの維持に必要な量のエキゾチック物質を生成・操作することは、現在の物理学や技術の範疇をはるかに超えています。エキゾチック物質の性質や、それが物理学の基本原理とどのように整合するのかについても、理論的な探求が続けられている段階です。

したがって、ワームホールを介した時間旅行は、現在のところ理論的な可能性に留まっており、その実現には負のエネルギーを持つエキゾチック物質という、極めて困難な物理的障壁が存在します。物理学者は引き続き、時空の性質、エネルギー条件、そして量子効果と一般相対性理論の統合(量子重力理論)を探求することで、時間旅行の可能性と限界に関する理解を深めています。