時間対称性と非対称性:物理学が示す過去への時間旅行の困難
はじめに
時間旅行という概念は、SFの世界では未来への旅も過去への旅も同等に扱われることが多いかもしれません。しかし、物理学の観点から見ると、未来への時間旅行(例: 特殊相対性理論における「ウラシマ効果」による時間の遅れ)が理論的に許容される一方、過去への時間旅行は非常に難しい、あるいは不可能であると考えられています。その困難さの根源の一つに、物理法則が持つ時間に対する性質、特に「時間対称性」と「時間非対称性」の問題があります。この記事では、この物理学的な視点から、なぜ過去への時間旅行が本質的に難しいのかを探求します。
ミクロな物理法則の時間対称性
物理学の多くの基本的な法則は、時間反転に対して対称であるという興味深い性質を持っています。例えば、ニュートン力学における物体の運動方程式、古典電磁気学のマクスウェル方程式、そして多くの量子力学の基本的な方程式は、時間の向きを反転させても(時刻 t
を -t
に置き換えても)方程式の形が変わらない、あるいは物理的に意味のある変換を伴う場合が多いです。
この時間反転対称性(T対称性とも呼ばれます)は、これらの法則に従う現象が、時間を逆に巻き戻しても同じように記述できることを示唆しています。例えば、摩擦のない空間でボールを投げ上げ、最高点から落下する過程は、ちょうど落下してきたボールが逆再生されて投げ上げられる過程と同じ物理法則に従います。これは、これらの法則が原理的に過去の状態から未来の状態を決定するのと同様に、未来の状態から過去の状態を「逆決定」できるかのようにも見えます。
しかし、この時間対称性は主にミクロな物理過程、理想化された孤立系において成り立ちます。実際の物理現象、特に私たちが日常的に経験するマクロな現象の多くは、明らかに時間的に一方向性を持っています。
マクロな世界の時間非対称性:時間の矢
私たちの身の回りには、時間が一方向に流れていることを示す現象が数多く存在します。コップが割れる、インクが水に広がる、熱いコーヒーが冷める、といった現象は、決して逆向きには自然に起こりません。このような時間の一方向性を「時間の矢」と呼びます。
時間の矢の最も重要な物理学的な根拠は、熱力学第二法則、すなわち「孤立系のエントロピーは決して減少せず、常に増大するか一定に保たれる」という法則です。エントロピーは系の無秩序さ、乱雑さを示す量です。時間とともにエントロピーが増大するということは、系がより無秩序な状態へと向かう不可逆的な過程が自然に進行することを示しています。
- 割れたコップ: 破片が自然に集まって元のコップに戻ることはありません。これは、割れた状態の方が元のコップよりもエントロピーが高い(配置の自由度が高い)ためです。
- インクの拡散: インクが水全体に広がることで、元の濃縮された状態よりもエントロピーが増大します。自然に一箇所に集まることはありません。
- 熱の移動: 熱は常に温度の高い方から低い方へ移動し、温度差を均一化する方向に進みます。これもエントロピー増大の過程です。
マクロな現象におけるこの不可逆性、すなわち時間の非対称性は、ミクロな物理法則の時間対称性と一見矛盾するように見えます。この矛盾は、系の持つ膨大な自由度と、統計的な振る舞いによって説明されます。ミクロな法則は時間対称であっても、マクロな状態に対応するミクロな状態の数は圧倒的に非対称であり、エントロピーが高い状態(多くのミクロな状態に対応する)が圧倒的に実現されやすいため、系は高いエントロピーの状態へと統計的に向かうのです。
過去への時間旅行と時間非対称性
過去への時間旅行、すなわち過去のある特定の時点の状態へと戻ることは、このマクロな時間非対称性と深刻な対立を引き起こす可能性があります。もし過去へ旅することが可能であるとすれば、それは系のエントロピーを減少させる過程を伴うか、あるいは「過去」という低エントロピーな状態へと物理的に逆行することを意味するかもしれません。
特に、ワームホールなどを経由して過去へ旅し、過去の出来事に干渉しようとする場合、それは因果律のパラドックス(例: 親殺しのパラドックス)を引き起こすだけでなく、その干渉自体が過去の低エントロピーな状態を乱し、エントロピーを不自然に減少させる(あるいは極めて低い確率の事象を起こす)操作を必要とする可能性があります。熱力学第二法則は、孤立系においてエントロピー減少が自然には起こらないことを強く示唆しています。
また、宇宙全体の初期条件が非常に低いエントロピー状態であったという事実(宇宙論的な時間の矢)も重要です。宇宙全体が時間とともにエントロピーを増大させながら進化してきた中で、局所的に時間を逆行させる(エントロピーを減少させる)ような操作が、基本的な物理法則や宇宙の熱力学的進化とどのように整合するのかは大きな問題です。
まとめ
物理学の観点から見ると、多くの基本法則はミクロなレベルで時間対称性を持っています。しかし、私たちが経験するマクロな世界は、熱力学第二法則に支配された強い時間非対称性(時間の矢)を示しています。このマクロな非可逆性が、過去への時間旅行を物理的に非常に困難、あるいは不可能にしている根本的な理由の一つと考えられます。
過去のある時点の状態を再現し、そこへ物理的に到達し、さらに干渉するという行為は、単に時間の向きを反転させるという単純なことではなく、エントロピーの増大という自然な流れに逆行する、物理的に極めて実現困難な操作を伴う可能性があるのです。時間対称な微視的法則から、なぜ巨視的な時間非対称性が現れるのかという問題は、物理学、特に統計力学や宇宙論における深い研究テーマであり、時間旅行の可能性を考える上で避けて通ることのできない重要な論点です。